終末の極北
最初からネタバレです。以下、ロメロの新作についてネタバレてます。
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とあるドキュメンタリー映像が、スタートする。タイトルが出る。何か異様なことが起こっている現場を背景に、TVレポーターがカメラに向かってしゃべり始める。途中、カメラマンが何かに動揺してカメラはぶれ、レポーターがオフレコ台詞を吐く。悪態をつく。そんな「未編集」映像の、さらにそのうえに「その未編集映像をネットで拾った」人物がナレーションを被せる。そういう複雑な作品としてこの映画は始まる。いきなりひどく錯綜している。うわうわ。とまあ、いまや映像メディアとはそういうものだ、とその瞬間に(心の準備もなしに)観客は納得せざるを得ない。あるいは、観客はあらかじめそう納得していなければならない。なんやねんそれ。問答無用。
映画『ダイアリー・オブ・ザ・デッド』(imdb)を観た。
よもやあるとは思っていなかった、ジョージ・A・ロメロ監督の新作ゾンビ映画、5作目である。今までの4作の続編ではない。新しいアプローチで、今までの4作を一気に駆け抜ける…そんな映画だ。
デジカム撮影、神の視点を一切排した映像(登場人物の持つカメラや監視カメラの撮った映像、テレビやネットのニュース映像しか画面に映らない)、ついでにカナダ資本であることなど、ブライアン・デ・パルマ監督の『リダクテッド/真実の価値』(→拙記事)と共通点が多い。メディアに関わりながらメディアの限界について作家が真摯に突き詰めてしまうと、何かが似通ってくるのだろうか。で。そこではフィクションとドキュメンタリーが、本気で交配し始める。フィクションであろうがドキュメンタリーであろうが、そこに何を残すか残さないか、それを選択することこそが作家の主張であり存在意義になってくる。客観性は保証されない。選択そのものが作家の主張になる。しかしさらに言えばその主張さえもが、そこに「観たいものを観る」という観客の選択に合致しなければ、主張として存在することさえできないのだ。なんやねんそれ。問答無用。
観てもらえなければ、存在しないも同然。
逆に観てもらえさえすれば、「邪悪なもの」も簡単に存在しうる。それが偽物であっても。
ああもどかしい。要するにロメロは、真実とは何かを本気で考えているのだ。「湾岸戦争は起こらなかった」と挑発的に発言したのは誰だったっけか。
「米流終末映画」という映画ジャンルがある。僕が勝手に作ったんだけどね。911同時多発テロが生んだ「世も末だあ」映画の総称なんだけどね。例えば『ダークナイト』(→拙記事)とか『クローバーフィールド』とか『ミスト』のことなんだけどね。
この映画は米流終末映画の極北だ。
「人間性」を考え直すためには、一度「人間性」を全部捨ててみなければならない。ゾンビになりたくないか?ゾンビになっちゃったら人間に戻りたいか?だったら人間のほうがマシだという理由を説明してみろ!とロメロがマジ怒り。そんな映画です。
疑問がひとつ。ロメロのゾンビ映画第4作目『ランド・オブ・ザ・デッド』は、2005年の作である。つまり、911以降にロメロはゾンビ映画をふたつ作っている。『ランド・オブ・ザ・デッド』は、ゾンビと人間が、仕方なくともに生きていく(ゾンビ死んでるけど)可能性を垣間見せた映画だった。しかし『ダイアリー・オブ・ザ・デッド』は、仕方なくともに生きていく(ゾンビ死んでるけど)ことなど不可能だ、と言い切っている。前作と今作の間に、ロメロにどんな心境の変化があったのか。なぜ変化があったのか。
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