取り替え子
映画『チェンジリング』(imdb)を観る。
ストーリーについては何を書いてもネタバレになる気がするので書かないが、それでもネタバレするかも知れないので以下ご注意を。
とにかく、ずいぶん多くの軸足を持つ映画なのである。母の子に対する想い、猟奇犯罪、警察と政治の腐敗、裁判、そして勇気と、狂気と、つかの間の友情。これだけのいやこれ以上の要素が高密度で詰め込まれているのに、映画自体がばらけて破綻してしまわないのは不思議としか言いようがない。監督クリント・イーストウッド、御歳80歳に近づいてますます鋭利になっていく。異常な出来事がつるべ打ちのように連続する映画なのに、演出のトーンは終始一貫落ち着いていてなんの迷いもない。
なぜ破綻しないのだろう。思うにイーストウッドの世界観が、『ミスティック・リバー』あたりから「この世は腐っている」という厭世観に固定されてきたからではあるまいか。この映画も、そもそもの最初から不穏なのである。導入部の主人公と息子の日常も最初から不穏なのだ。そして、出てくる人物が主人公も含めてことごとく不穏である。ああこのひとはまともだ、と観客を安心させるような人物は、映画が終わるまでにたったひとりしか出てこない。そして映画は不穏なまま終わる。それでも、今回の作品は重苦しさ以外の何かを感じさせて終わる。『ミスティック・リバー』や『ミリオンダラー・ベイビー』にはなかった、若干ポジティヴな何かを。
そのイーストウッドが「戦争」を扱うと彼の厭世観がそのまま厭戦感に直結する。その結果として傑作になったのが『父親たちの星条旗』と『硫黄島からの手紙』なわけだが、戦争映画でもないこの『チェンジリング』も傑作(そう、傑作だと思う)になったのは、この腐った世の中でいちばん大事なのは自分の人生は自分で守るという気概(ガッツ)だけだ、というメッセージが確かにここにあるからだろう。そしてところで、そのメッセージを体現してみせるのは、実は主人公のアンジェリーナ・ジョリーじゃない。もちろん彼女は素晴らしい演技をしているが、当人は理不尽さの嵐のなかで不穏さに流され飲み込まれ、正気と狂気のあわいに漂っていってしまう。物語上はそうは見えなくても。演出がそうなのだ。これは俳優の使いかたとして正しい。アンジーがメッセージの体現者をやってしまうと、『マイティ・ハート/愛と絆』(→拙記事)のように失敗するのだ。イーストウッドの慧眼だと僕は信じる。
メッセージの真の体現者は、唯一まともにみえる某脇役の女性である。この人物の存在がなければ、やはりまた重苦しいだけの映画になっていただろう。
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コメント
メッセージの真の体現者って、エイミー・ライアンが演じた「夜の仕事」をしていた人のことですか?
投稿: H2O | 2009年2月25日 (水) 22:02
>H2Oさま
はい。ご賢察の通りです。
僕は、イーストウッドがアンジーに華を持たせつつも、エイミー・ライアンをさりげない導き手としてあの場所に置いたように感じました。
投稿: kensuke | 2009年2月25日 (水) 22:18
なるほど。彼女はアンジーのメンターだった訳ですね。
施設を離れる時の、二人の目による感情表現はとても印象的でした。
投稿: H2O | 2009年2月26日 (木) 09:03
僕も、あの場面は本当に名場面だと思います。
表層だけだとアンジーが女性を助けたように見えますが、実はその逆にも見ることができるという、重層的な演出だと思いましたよ。
投稿: kensuke | 2009年2月26日 (木) 20:27